親は子を選べない、子どもは親を選べない

親は子を選べない、子どもは親を選べない、だから、双方向に育て合う。

どんな子、どんな親に当たっても、当たり。そう思うことで社会に持続性が生まれていたのです。

火曜日です。

松居和チャンネル、第15回をアップしました。

テーマは、「子育てに正解はない」

~いい親でいたい、と思ったら「いい親」~、という副題をつけました。

選べないことが「凄い」。

大自然の「法則」は、選べないことの組み合わせで成り立っている。言い換えれば、選択肢があると思い始めたり、「豊かさ」を求めることで、人間は本来の自分を見失う。「幸せへの道筋」を手離していく。

それが今、先進国社会で未体験の「混沌」を生み出している。欲に歯止めがかからない。

子育てに「正解」を求めれば、自分の中に、すでに「答え」があることに気づかなくなる。「いい親」は、親の「心持ち」であって、結果ではない。

子どもの成長過程に、様々な要素が交錯してくる現代社会では、例えば、どんな友達に出会うか、中学校のクラス分けなどでも「結果」は変わってくるだろうし、保育者や担任の当たりはずれが、親子の人生に及ぼす影響は、計り知れない。それが「先進国社会」なのです。だからと言って、親たちが、子育ての責任を回避し始めれば、保育や学校という仕組みは、その責任を負いきれなくなるのです。

子どもの「愛着関係を求める心」だけが、宙に浮いていく。

基本になるのは、やはり親たちの、「いい親でいたい」と思う気持ちが、社会に満ちていること。

近頃、就学前に、長時間預けることが、不自然とは思われなくなっているのです。

「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言ったとんでもない厚労大臣が、幼保一体化を進め、保育資格を持っている人は「子育てのプロだから」と軽々しく言う無責任な学者たちに促され、仕組みに子育てを頼る親は、確実に増えている。

それが、

保育士の一斉退職 「このままでは子どもが守れない 最後の手段です」(NHK)

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014429461000.html という報道に現れる。

教員の応募倍率が下がり、文科省は規制緩和を始め、保育が辿った道筋と同じことを義務教育でもやろうとしている。しかし、すでに「担任の当たりはずれ」は度を超している。内部崩壊が始まっている。

結婚は、自ら進んで「不自由」になること。

不自由になることに、人間は、幸せを感じ、それを「絆(きずな)」と呼ぶ。一人では生きられないことを自覚すれば、助け合いが、より真実味を帯びる。

子どもを産むことは、結婚に輪をかけて「不自由」になること。

私たちが、いま生きているのは、親たちが、我々に自由を奪われること、自由を捧げることに、幸せを感じたから。

アメリカに住んでみると、自由とか自立という言葉が、「子育て」という絶対的「縛り」から解放されるために使われているのがわかる。それを「平等」という言葉で正当化しても、それは強者たちの論理、免罪符でしかない。弱者が、犠牲になる。家庭崩壊が進み、犯罪が増える。

そんな話もしました。

子育ては、親が初心者であることが、選択肢のない、絶対条件であることを思い出してほしい。

私の師は、一年目の保育士に敵う保育士はいない、と、私が教えていた学生たちに言いました。新鮮で、オロオロする心持ちが大切で、それを専門性とか手法で手離してはいけない。

「子どもが初めて歩けるようなる瞬間を、親が見ていない、なんてことを許したら、親子の不幸に手を貸すことになるんだからね」、ともう一人の師は言いました。園で歩けるようになっても、「もうすぐ歩けるようになりますね」って、親には言うんだよ」と現場の保育士たちに伝えた。それが、保育士こころ、親心と、私は、心に刻んだのです。

0歳児を預けに来た親に、「いま、預けると、歳とって、預けられちゃうよ!」と言う保育園の園長が、日本にはいる。子どもたちを守ろうとする「勇気と覚悟」。これほどの「親心」、「保育士こころ」はないと思う。

「保育は成長産業」とした閣議決定がその対極にある。「欲」に働きかけて、福祉を支えようとしても、現場の心が萎えていく。いい加減にしてほしい。